農学部 応用生物化学科
教授 伊藤 菊一
分子生物学
岩手大学農学部の伊藤菊一教授らの研究グループは、発熱植物ザゼンソウを対象にしたトランスオミクス解析により、本植物の発熱組織でその発現が特異的に賦活化されている一連の遺伝子と代謝系の全貌を解明しました。特に、ザゼンソウの発熱組織で最も高い発現量を示す遺伝子(selenium-binding protein 1/methanethiol oxidase)は、ザゼンソウの熱制御システムに密接に関わるだけではなく、本植物が発熱時に悪臭を発しない理由を説明できる重要な遺伝子であることが明らかになりました。
本研究の成果は、外気温の変動にも関わらずその花器温度をほぼ一定に保つことができるザゼンソウの温度調節メカニズムの核心に迫るものです。本研究は、寒冷環境におけるザゼンソウの発熱現象の分子基盤の理解に留まらず、地球規模の気候変動下における農作物の安定的な生産にも繋がることが期待されます。本研究成果は、岩手大学大学院連合農学研究科 谷本 悠 大学院生を筆頭とする論文として2024年2月6日(米国東部時間)に国際誌Plant Physiologyの電子版で公開されました。
近年の地球温暖化は、世界の農作物の生産にも甚大な影響を与えています。一次生産者である植物は、人類の生存を支える食料生産において重要な役割を果たしています。しかしながら、環境の変動、特に、温度に対する植物の応答メカニズムは未だ十分に解明されていません。一方、植物の中には、積極的に発熱をするものが存在し、特に、岩手を含む我が国の寒冷地に自生するザゼンソウは、肉穂花序と呼ばれる花器が特異的に発熱し、その温度をほぼ一定に維持することができるユニークな特徴を持っています。
ザゼンソウの発熱器官である肉穂花序は、環境温度変化に鋭敏に応答することから、その温度調節メカニズムに関する研究は、植物の熱制御システムの理解に留まらず、地球温暖化における植物の環境適応に向けた分子育種や技術開発等においても重要です。本研究においては、ザゼンソウの発熱器官である肉穂花序に着目したトランスオミクス解析を行い、遺伝子発現と代謝変動のダイナミクスを明らかにすることに成功しました。
未発熱(Pre)、発熱中(Hot)、及び、発熱後(Post)の3つのステージにある肉穂花序について、肉穂花序を構成する組織であるflorets(発熱レベルが高い)とpith(発熱レベルが低い)に分別し、解析用のサンプルとしました。それぞれの組織における転写産物の発現と代謝産物量について詳細なトランスクリプトーム解析とメタボローム解析を行い、発熱と相関を示す一群の遺伝子と代謝産物を同定しました。また、発熱中の肉穂花序で最も高い発現量を示す遺伝子については、当該遺伝子がコードする酵素タンパク質を精製すると共に、当該酵素の反応生成物がミトコンドリア呼吸に及ぼす影響を様々な温度条件で解析しました。
トランスクリプトーム解析の結果、発熱ステージおよび組織の違いによって発現が変動する遺伝子(Differently Expressed Genes: DEGs)が合計3,624個同定されました(図1)。
この中で発熱中の肉穂花序のfloretsで高い発現を示す遺伝子を検索したところ、最も発現量の高い遺伝子がselenium-binding protein 1(SBP1)をコードしていることが判明しました(図2)。
SBP1は当初はセレン結合タンパク質をコードする遺伝子として同定されましたが、近年、同遺伝子はメタンチオールオキシダーゼ(methanethiol oxidase: MTO)として機能することが線虫やヒトで明らかにされています。一方、発熱中のザゼンソウ肉穂花序を含む複数の組織におけるセレン含量を誘導結合プラズマ質量分析により解析した結果、いずれもセレン含量は検出限界以下でした。ザゼンソウSBP1の予想アミノ酸配列にはMTOとしての機能に必要な全てのアミノ酸残基が保存されていることから、ザゼンソウの発熱中の肉穂花序で最も高い発現量を示す遺伝子は、MTOとして機能していると考えられます。ザゼンソウ由来のSBP1/MTOについては、肉穂花序から当該タンパク質を精製し、nano LC-MS/MSにより精製標品が予想される部分アミノ酸配列を有していることを確認しました。
MTO酵素はメタンチオールを基質として機能します。ザゼンソウ肉穂花序における硫黄代謝についてトランスクリプトームとメタボロームを統合した解析を行ったところ、発熱中の肉穂花序のfloretsにおいては、SBP1/MTOによりメタンチオールが消費され、硫化水素(H2S)が蓄積していることが予想されました(図3)。そこで、発熱中の肉穂花序のfloretsとpithにおける硫化水素の含量を比較した結果、硫化水素はfloretsにおいてより高い蓄積量を示すことが判明しました。硫化水素はミトコンドリアにおける呼吸経路に影響を及ぼす可能性が考えられることから、ザゼンソウの発熱している肉穂花序のfloretsから精製したミトコンドリアを使い、様々な濃度の硫化水素、及び、種々の温度条件で、チトクロームc呼吸経路(COX経路)とシアン耐性呼吸経路(AOX経路)に対する影響を解析しました。その結果、高い硫化水素濃度条件において、呼吸反応を行う温度が低下するとミトコンドリア呼吸におけるAOX経路の割合が高くなることが判明しました。AOX経路はこれまでの研究から熱産生に貢献することが知られており、今回得られた結果は、ザゼンソウ肉穂花序における温度調節とSBP1/MTOとの関連性を示す重要な結果です。
また、SBP1/MTOの作用によってMTO酵素の基質であるメタンチオールが消費されます。メタンチオールは悪臭成分であるジメチルジサルファイド(DMDS)やジメチルトリサルファイド(DMTS)の前駆体ですが、今回明らかとなった発熱組織におけるSBP1/MTO遺伝子の高レベルの発現によりザゼンソウの悪臭成分の発生が抑制されていることが示されました。もし、ザゼンソウにおいてSBP1/MTO遺伝子が発現していなかったならば、DMDSやDMTSが生じ、発熱時に相当の悪臭を放っていたことでしょう。また、SBP1/MTOにより生じた硫化水素とホルムアルデヒドの硫黄と炭素原子は硫黄代謝と1炭素代謝経路によりそれぞれ回収され、発熱代謝においてリサイクルされている可能性が示されました。ザゼンソウが発熱する氷点下を含む寒冷環境には明確な訪花昆虫がいないことから、本植物は悪臭成分であるDMDSやDMTSといった硫黄や炭素原子を持つ分子を放出することなく、これらの前駆物質を発熱のために再利用していると考えられます。
さらに、メタボローム解析からは、発熱中の肉穂花序floretsにおいて、ヌクレオチド代謝が活性化されていることが判明すると共に、細胞の飢餓シグナルとして機能するAMPが発熱組織において高レベルで蓄積していることが明らかとなりました。
今回のトランスオミクス解析から、肉穂花序の発達に応じた遺伝子発現と代謝産物の蓄積プロファイルの全貌が明らかになりました。特に、それぞれの遺伝子の発現や代謝産物の蓄積レベルは、その時期特異性や組織特異性は異なっていましたが、発熱ステージにある肉穂花序においては、発熱に関与する遺伝子群や代謝産物の蓄積が収束あるいは重なりを示していました。
従って、ザゼンソウにおいては、発熱組織で最も高い発現量を示すSBP1/MTO遺伝子と共に、糖代謝やミトコンドリア呼吸に関わる一連の遺伝子の発現と代謝産物の蓄積が発熱時に収束あるいは重なり合うことが本植物の発熱および温度調節に重要であることを示しています。この知見は、植物の発熱現象には「発熱遺伝子」が必要であるといった従来のシンプルな考えでは、ザゼンソウの熱制御システムを完全に理解できないことも示しています。また、今回の研究で明らかとなったSBP1/MTO遺伝子は、従来の研究では全く予想できなかった新規遺伝子であり、発熱植物ザゼンソウの温度調節メカニズム研究に大きく貢献するものです。
ザゼンソウは英語ではスカンクキャベツ(skunk cabbage)と呼ばれ、一般的には悪臭を発する植物として広く認識されています。しかしながら、無傷のザゼンソウには悪臭はなく、発熱している肉穂花序からもスカンクのような悪臭を感じることはできません。ザゼンソウの発熱現象の発見者であるKnutson博士が1979年に発表した論文には、次のような記述があります。
“an uninjured skunk cabbage flower has a faintly sweetish smell that gives no hint of the mephitic odor produced by any damaged part of the plant—a scent that one observer described as a mixture of skunk, putrid meat, and garlic” (Knutson, 1979).
(日本語訳:無傷のザゼンソウの花は、ほのかに甘い香りがし、植物のどこかが傷がついて生じる悪臭、ある観察者が表現したような、スカンク、腐った肉、そしてニンニクが混じったような匂い、を全く感じさせません。)
今回の研究成果は、「ザゼンソウは発熱時に悪臭を放つ」という誤った認識の修正を促すと共に、ザゼンソウが発熱時に悪臭を放出しない理由について、「発熱している肉穂花序で最も高い発現を示す遺伝子産物がメタンチオールオキシダーゼとして機能し、これが悪臭の原因となる物質の生成の抑制に働くからである」という新しい考え方を提示するものです。
本研究により、ザゼンソウの発熱器官である肉穂花序で発現している全ての遺伝子の情報が得られました。今後これらの遺伝子の中から、温度変化に鋭敏に応答する遺伝子が順次明らかにされるでしょう。野生植物ザゼンソウから得られた知見が地球レベルの環境変動に適応した農作物の分子育種等に貢献することが期待されます。
題目:Gene expression and metabolite levels converge in the thermogenic spadix of skunk cabbage.
著者:谷本 悠(岩手大学大学院連合農学研究科)、梅川 結(秋田県総合食品研究センター)、高橋 秀行(東海大学農学部)、後藤 広太(岩手大学農学部(当時))、伊藤 菊一(岩手大学大学院連合農学研究科?岩手大学農学部)
誌名:Plant Physiology
(DOI: 10.1093/plphys/kiae059)
本研究は、JSPS 科学研究費「基盤研究(B)」(研究課題番号:24380182,16H05064, 19H02918)及び「先進ゲノム支援」(研究課題番号:16H06279 (PAGS))の支援を受けて行われました。
農学部 応用生物化学科
教授 伊藤 菊一
019-621-6143
kikuito@iwate-u.ac.jp